軸先含めない全体的な大きさは178cm×37cM程度です。本紙シワのある部分があります。岸田吟香きしだぎんこう(1833―1905)明治時代の新聞記者、事業家。本名は銀次。播磨(はりま)国(岡山県)生まれ。江戸に上り、林図書頭(ずしょのかみ)の塾などに学ぶ。横浜でアメリカ人医師ヘボンと知り合いになったことから、外国の文物に目を開き、『和英語林集成』の編集に助力。1864年(元治1)ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が『海外新聞』を創刊した際にも協力した。1868年(慶応4)にはバン・リードEugene M. Van Reed(1835―1873)とともに『横浜新報もしほ草』を創刊し、日本の新聞発行に先駆的役割を果たした。また江戸と横浜の間に定期航路を開設したり、ヘボン伝授の目薬「精錡水(せいきすい)」を発売するなどさまざまな事業にも手を広げた。1872年『東京日日新聞』に入る。台湾出兵(1874)には日本初の従軍記者として現地に赴き、その報道は評判をよんだ。 1877年(明治10)には新聞社を退社し、活動の中心を実業方面に移した。目薬販売では中国大陸にも進出し、日中間の貿易拡大、文化交流にも尽力した。1876年洋学者中村正直(まさなお)らと盲学校「訓盲院」を創設。画家の岸田劉生(りゅうせい)は子息